これで「ヤマヒデの沖縄便り-Ⅱ」はおしまい。Ⅲが始まります。
皆様
皆様
18年4月3日、オスプレイを載せたグリーンレイクが横浜のノースドックに入港した。その画像を見て、私は12年7月22日20時過ぎに関門海峡(門司)で見た記憶(このときはグリーンリッジ)がよみがえった。あのときは岩国基地を経由して普天間基地に入ったが、あれから6年が経ったのだ。そして16年12月13日21時30分過ぎに大浦湾の東隣のギミ崎に墜落して大破した。また17年8月5日オーストラリアで着艦に失敗し墜落。これも普天間基地所属機だった。
今日帰宅したら、東京の憲法集会(5・3憲法集会実行委員会主催/有明防災公園)のチラシが届いていました。確かに4月になったので、あと1ヶ月。何もやっていない人間が言ってはいけませんが、いつもながらのちらし。全然危機感が伝わってこない。もう待ったなしですよ。それは今年中にやってくる。すでに私達は「戦争する国・できる国」に生きている。「知らぬが仏」って、やつですか。
このブログの容量が一杯になりそうで、更新を止めています。また、ならば、じっくりと再考して作ったらという示唆をいただき、1から出直そうと検討を重ねています。まだまだ道半ばですが、暫定的に現地からの告知等を再開しなければならないし、ブログ設計の検討に入りました。まだしばらくかかりますが、どうかおまちください。
辺野古・大浦湾を案内する機会があったので、同日各地からの写真を示します。参考になれば幸いです。
懸案のお仕事をこなさなければならないのですが、昨日は南部にでかけてしまい。今日も辺野古は休んでいます。辺野古ではトラックによる搬入も護岸工事もないらしい。ほっ。
2018年3月19日 晴れ。巡視船1、警戒船多数。
昨日は突然、来沖している友人達に誘われて南部へ。自分は疲れていて、余り感度がよくなかったのだが、これまた南部在住の友人のガイドの下で色々と学ぶことが多かった。
2018年3月18日 晴れ。今朝はちょいと訳ありで、辺野古テント村に着いたのは、10時過ぎ。久々のいい天気に、うっとり。工事はやっていないし。
2018年3月17日 曇り後雨。巡視船1、警戒船多数。
Ⅰ:負けた
去る2018年2月4日投開票の名護市長選は、大方の予想を覆され、稲嶺進市長の3選はならなかった。しかし私は客観的な評価として負けを予測していた。
自民党・公明党と維新の会の推薦を受けた渡具知武豊陣営は、徹底的な争点ずらしと、事実を捻じ曲げたフェイク宣伝等で、基地建設が名護市民にもたらすだろうシビアな近未来をぼやかし、稲嶺進市長の実績を闇に葬った。相手候補は、公開対話の要請を悉く断り、論理破綻の隠蔽に全力をあげた。そして薄ぼんやりとした「豊かな名護市の未来」に「こっちの水が甘いぞ」とばかりに相対多数の市民の目を向けさせたのだ。要点は拙稿「地域の民主主義が壊された名護市長選」―『人民新聞』に寄稿。ブログ「ヤマヒデの沖縄便り―Ⅱ」でも読める。
Ⅱ:私の予測の根拠
私の予測は12月段階からだ。7月に名護市議の渡具知武豊氏が相手陣営の候補者として浮上した。これは名護市自民党が決めた。自民党中央や同党沖縄県連でも合意されていなかった。10月に沖縄県連の合意が取れ、12月に公明党沖縄県連が全面的に同調。同時に自民党中央や安倍政権から大物と言われる人たちが名護入りを始めていた。10月から3ヶ月の間に「ステルス」作戦といわれたローラー作戦が投票日まで徹底的に行なわれたのだ。こうした動きは断片的だが私たちにも聞こえてきた。
他方、彼らは、表の舞台でも12月の早くから元気一杯、激しい選挙活動を繰り広げていた。彼らの街宣車が通ると、「ありがとうございます」などと、通りがかりの人が支持を示そうが否かを問わず、渡具知候補へと街の雰囲気を作り出していった。
稲嶺陣営は、現職ということもあって、先走りを抑制していた。控えめすぎた。その間に「名護市を変えよう」のイメージが広げられていたのだ。警察の規制も明らかに稲嶺陣営に厳しいものだった。
私は稲嶺選対の内情を知らないが、①新基地建設阻止の日々の緊張した現場に引きづられたこともあり、②日々護岸建設が進んでいる現状に押されたことも否めない。③そして稲嶺市長の実績を評価しすぎ、相手候補を見くびった余り、この選挙が国の総力戦だということを十分に掴みきっていなかったのだ。
因みに2010年の初選、14年の再選の時は、街中に「稲嶺必勝」の気概が溢れていたことを私ははっきりと思い出す。
Ⅲ:敗戦の何が痛いのか? ①住民自治に関して
稲嶺市長・陣営は、一貫して、子どもの未来を軸にすべての名護市の政治を語り、実践してきた。だからこそ「名護市のことは市民で決めよう」と主張してきた。「新基地=再編交付金に頼らず、できる」と言ってきた。しかし最も肝心なこの問題を市民ひとりひとりの暮らしの中に浮上させることができなかったのだ。なぜこうした結果を招いてしまったのだろうか?
この問題は様々なレベルから総括すべきだろう。これに答えることは、今の私には荷が重過ぎる。だから一例になる。私自身名護市民になって、4年余りになるが、辺野古・大浦湾の現場にどうしても集中しており、一人の住民として、市民自治の主体として、係われていない。たとえば名護市民に辺野古テント村で話をすることはできても、外に開かれた関係を作り出せていない。
観光政策についていえば、名護市も沖縄全体も、優れた資源をもっている。だが、米軍基地に侵犯されているために、また、市民の日常の中に優れた資源がありすぎて、ひとつひとつの資源の価値に市民が疎いのだ。さらにひとつひとつの場を繋ぎ時間を結ぶ対策が取られていない。観光の基礎的資源こそ住民(の人間力)なのに、この自覚が足りないのではないか。人を呼ぶことは工夫次第でまだまだ可能だ。
また、これは選対の意識を反映しているようだが、「稲嶺候補に市政をお任せください」と言ってしまうのも、私はダメだと思う。「住民と共に」を滲み出す訴えが重要だ。こうでないと、「善政」であればあるほど、市民のお任せ意識を助長してしまう。こうした緩みの間(8年)に、渡具知陣営のフェイク言論が潜入する隙ができていたのではなかったか。
Ⅳ:敗戦の何が痛いのか? ②新基地建設に関して
これは痛すぎる。この結果、名護市長のいくつもの権限を失った。最大の権限は辺野古美謝川や辺野古川の管理権だ。特に美謝川の管理権は決定的だった。この川の流れを変えないことには本格的な埋立て工事に入れない。このまま埋め立て造成したら水が溢れ出すからだ。
無論、市長の個別の権限だけでなく、基本姿勢の違いは余りにも大きい。特に翁長県政とのタイアップの力は潜在的にみえるが、安倍政権や防衛省、契約企業にとって、(民意を無視するということが)脅威だったはずだ。翁長県政にとっても新基地建設の地元の名護市の変節は痛い。出口調査や世論調査では60%余りが新基地建設に反対と言っても、論拠が弱まったことは否めない。
このまま放置しておけば、基地建設そのものの是非が揺らいでいくだろう。私たちが地道な掘り起こし、確信の広がりを作り出していかなければ、9月の市議選や11月の県知事選にも対応できなくなるだろう。
私達は、「海兵隊の撤退・移転」を掲げた新市長に何を要求していくのか。何を詰めていくのか。選挙での敗北が私たちの自壊に繋がることがないように、あらためて新基地建設を阻止し、海兵隊の撤退を求める中で、軍事力に頼らない、非暴力の闘いこそが人と人の、国境を越えた確かな絆を創り出せることを示していこう。
Ⅴ:結語
詳細はあらためて考えるしかないが、上記の2点をまとめて考えることが不可欠だ。
私はこれまで辺野古テント村などでこう語ってきた。「私たちは、諦めることはできません。再び沖縄を戦場にさせないために、造らせない以外の選択の余地はありません」と。自然環境の問題や日常的な基地被害の問題も大きな問題だが、この一点を曖昧にしない(後者の問題も重要であることは言うまでもない。複合的に考えることが重要)。
私達はたじろいでいる時間も余裕もない。ゲート前でも海上でも市街でも、そしてネット環境の中でも、私達は歩み続けていく。皆様も共に歩まれんことを切に希望したい。またそのための歩み方を共に考えたい。
〇本稿は「沖縄の怒りと共に」104巻 18年3月11号に寄稿したものです。発行:うちなんちゅの怒りとともに! 三多摩市民の会発行
昨夜から、友人のような人たちが名護に来ており、今朝、大浦湾から豊原、辺野古までをご案内しました。色々な関係が分かり、これからもどうぞよろしくでした。久しぶりに深夜まで(1時頃までだが)おしゃべりし、寝不足に。
今回石垣市長選の合間に4年ぶりに西表島に。こんな場面に出会った。
2018年3月16日。曇り。波高く、海上行動中止に。巡視船1隻。
2018年3月14日曇り。風強く、波高い。巡視船1隻。
2018年3月13日 晴れ 巡視船1、警戒船多数。
石垣市長選で基地建設反対を明確に掲げた宮良操候補が負けた。自公維新等が押した現職が勝ったのだ。衆参両院の議員が60名も来たとのことだ。
18年3月12日国頭の採石場前の公道で1名が逮捕されていたが、翌13日、地検検事判断で、無事に釈放された。
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