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2017年3月13日 (月)

瓢箪から駒が出るようなお話(17年3月13日)

 今日の名護は小雨。それでも、だいぶ暖かくなってきた。今日の宿題は整骨医に行くことと決めていた。首と言うよりも、背中全体が大いに凝っていると言われた。さて、頭部への影響があるのかないのか。少し様子をみてみよう。

 ブログに書くべきことはあるのだが、「これまでも、これからも」と「千代田と野原の間に潜む謎を考える」を書いたので、いささか力尽きている。そもそも体調不良で集中力がおちているので、やむおえないのだ。

 軽めの本を読んだ。矢崎泰久編の「永六輔の伝言-僕が愛した『芸と反骨』」だ。彼らは共に1933年生まれだ。敗戦時12歳だったことになる。多感な、育ち盛りだった年齢を生き延びたのだ。無論、運も才能もそして人と人の環ができて、多くの業績を残したのだろう。

 私が永六輔の名前で思い出すのは、やはり、「夢で会いましょう」(61年4月から始まったバラエティ番組)と中村八大(作曲家、ピアニスト)とのコンビ、そして「中年御三家」(小沢昭一、野坂昭如と永の)。

 あの時代の戦中の過ごし方は皆さん、凄い。小沢は長崎の針尾島(佐世保)の兵学校で敗戦を迎え、東京に帰ろうとする。寝ているうちに、貨物列車に乗せられて帰途についたら、あたりは真っ赤だったと。そこはヒロシマ。荼毘に伏せられた亡骸が火の玉になって飛んでいたと。想像を絶するヒロシマとの出会い。かたや野坂は小説「火垂るの墓」で有名だが、神戸大空襲から義理の妹(1歳4ヶ月ー小説では4歳)と2人で逃避行。妹を餓死させてしまう。荼毘に付したら骨が残らず、すべてが灰になっていたという。

 こういう体験が彼らの反戦の原点なのだと、痛く納得。そういう時代を生きざるを得なかったから、ああいう生き方になったのだろう。

 沖縄では、一人ひとり、もっともっとすさまじいことがあるのだが、やはり表現力がなければ表に出てこない。インタビューしたり、語り部を生み出したり、言語化を促す助力が必要だ。こうした社会的な働きかけ-協働があってこそ、平和をつないできたのだろう。

 永さんたちは才能と運と人との出会いがあって、様々な形で表現してきたのだが、多くの人々は、言葉に吐き出せないままに人生を閉じていったのかもしれない。私はこれまで、沖縄、広島、長崎のほかの地で戦争を語ることが殆どなされてこなかったのは何故かとの疑念を抱いていたが、圧倒的に社会的協働が足りなかったのだろう。今頃気がついても遅いのだ。ただ写真を撮るというアプローチもその一環になりうるわけで、可能な限りやっていくべきだろう。

 本書を読んだ、瓢箪から駒が出るようなお話でした。

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